師匠の思い出 〜極楽寄席で名人芸を!!〜



師弟の心の絆
1月18日、一門の新年会。年末から腰痛のため、検査入院していた師匠の退院を祝おうと集った所、師匠の姿がなく、沈痛な表情で時には涙声で筆頭弟子、三枝から師匠の本当の病状を告知された時の一同のショック、その場は静まり返り、あちこちからすすり泣きが聞こえた。「師匠は、高座復帰を楽しみに前向きにがんばっている、この事はみんなの家族にも伝えないでほしい。一人でも心の負担をかけんとこ。我々直系の弟子、孫弟子の胸にしまってがんばっていこう!」それから病院につめる者、通う者、皆、おやじの前では明るくふるまった。各地の楽屋でも、よその一門の方々が心配して下さっても、けっして病状は明かさなかった。文紅師匠のお通夜の席でも皆さんずいぶんお気にかけて下さったが、文枝の弟子達は、気丈にふるまった。それは大石をしたう赤穂浪士のような結束だった。2月9日、今年2回目の一門新年会。師匠の希望で病院近くの伊賀市(旧大山田村)のさるびの温泉。それが毎年恒例の楽しい一門の宴の最後になろうとは……。


一門合同葬
肺がんによる呼吸不全で、3月12日、極楽浄土に旅立った師匠五代目文枝の一門合同葬が、阿倍野区の「やすらぎ天空館」で行なわれ、弟子や親族、落語界をはじめとする芸能界、一般のファン等約1500人が上方落語の大看板との最後の別れを惜しんだ。葬儀委員長の米朝師匠と共に参列された友人代表の春団治師匠は「文枝君とは同い年でライバルやと思って努力してきた。そのおかげで僕がある、いろんな思い出をありがとう…」とおえつをもらしながら話され多くめ方々の涙をさそった。
三枝のコメント
「師匠、よかったでんなぁ。たくさんの人が来てくれはりましたよ。お世話になった四代目文枝師匠や五代目松鶴師匠との再会を楽しんで下さいね。天六生まれの師匠が楽しみにされていた天満天神繁昌亭、絶対に成功させます。一門力をあわせてがんばっていきます」
きん枝のコメント
「あなたが大好きでした。高校の時に父を亡くした私にとって、父以上の存在で、我々が考えつかない大きな愛情で育ててもらい幸せでした。おつかれ様でした」
文珍のコメント
「うちのおやっさんは『わしは植木屋のおやじと一緒や。弟子が自由にのびたらええけど変な方向に枝をのばしすぎたらチョキンと切ったんねや。後はのびのび育ったらええ』ほんまにふところの大きな方でした」


見事な大トリ  桂坊枝
病院に向かう足取りはいつも重かった。たとえメスをいれて一時は痛がっていても徐々に快方に向かうのと事が違う。痛がり、日々衰え、そして別れの頃まで知らされている。そんなに珍しいことではないだろうが、もっともっと先だと思い込んでいた。師匠もそうだった。それだけに高座復帰への執念は凄まじいものだった。伊賀上野の病室での時間は大阪とは違うゆったりとした流れのようにも思えた。その一見ゆったりとしている時間を師匠はどれほどの苛立ちと悔しさと戦いながら過ごしていたか、常に落語のことを考え周囲のことを気遣い前向きであった。しかし、身体が衰えるにつれ強靱な精神力にも限界があった。時々辛い心の内を覗かせることがあった。何もできない、辛かった。そして病気との壮絶な闘いで身も心もとことん消耗させられ逝く時を迎えた。師匠とともに病室を出る時、主治医の村山先生が、今しかないかのように私に寄り添い耳元で早口にこう言った。「私も長くこの仕事をやっていますが、師匠のように、真正面から病気と闘い続ける人を見たことがありません。すごいかたです、師匠を誇りに思って立派な芸人さんになって下さい」涙が止まらなかった。師匠、師匠の弟子で本当によかったです。師匠の弟子として恥ずかしくない落語と生き方ができるようになります。


おおきに!! 大師匠  桂茶がま
弟子入り(桂文福)の時にうめだ花月で始めて大師匠(当時は桂小文枝師匠)に会った。高座より少し低い声で「ちょっとこっちへおいで」と言われ、僕は「何処につれて行かれるんやろー」と不安に思いながら大師匠の後をついて行った。そこは開演前の舞台の袖だった。「ここで何をされるねん」と緊張していると、優しく「落語やりたいんか」と聞いてくれた。「ハイ」大師匠はうなずきながら「よっしゃ分かった。文福についたらえェ」とその場を後にした。20年前の出来事だった。不安と緊張、そして温かいと言うか、嬉しいというか、当時の僕にとっては、その時間がとても長く思えたのを記憶している。


文福のおいやんストーリー
今はない「なんば花月」の楽屋の便所の横で「おいやん!! 弟子にしてけえ!!」「いね!!(帰れ!!)」昭和46年秋の事。はじめての師匠(おやじ)との会話だ。(会話になってない…トホホ)大日本印刷の製本工で紀州なまりと生まれつきの吃音者の私に対して、おやじは「おまえには独特の、間(ま)があるんや」と導いてくれた。内弟子の頃、2階の改築中、天井の板をふみはずし、師匠ご一家の食卓の鍋にぞうりを落とし、おやっさんの頭に木のクズを落とした男に対し「おい、ケガはないか?」と気づかってくれた。吉本をやめた時「おまえなら大丈夫!! しっかりやれ」とはげましてくれた。私の弟子、茶がまの独演会では「天神山」ちゃん好改め文鹿の改名披露の会では「天王寺詣り」とおしげもなく「孫」のため、大ネタで大熱演してくれた。

数多い思い出の中でも、10年前アメリカのシアトルでの落語会のことは今も胸があつくなる。最初はワシントン大学のホールで日本語を勉強している学生や現地の日本企業のビジネスマン相手となってはいたが、日に日に話が大きくなり、なんと会場は五番街のオペラ劇場に3000人。半数はアメリカ人。公演日までの主催者の接待でも、師匠は気もそぞろ。ところがいざ幕があくと、あやめちゃんが「セールスウーマン」で大爆笑。私も「大相撲風景(現地ではザ・スモウシーン)でもシーンどころか大盛り上がり。師匠も「天神山」を熱演。キツネのしょうじ抜けまで立体的に演じ、万来の大拍手。終演後、私とあやめちゃんを両わきにかかえるようにギューとおもいっきりだきしめてくれた時、大粒の涙がこぼれたものだ。翌目、観光の予定を変更して現地の老人ホームを訪問し、「鹿政談」をサービス。10歳で大阪をはなれて70年というおぱあさんが感激の涙を流され、師匠にだきついた姿も思い出す。新弟子時代、相撲部屋にも連れていってもらいましたなー。密葬の日が春場所初日。一門連中の手ぬぐいと一緒に、私は春場所の番付をひつぎにそっと入れました。おやっさん、いや、おいやん、こんなわえを弟子にしてくれておおきによー。こえからも、がんばるさけ、いつまでも見守ってけえ!!



編集後記
「おい、いちもん新聞まだ出えへんのかえ…」と一番に楽しみにしてくれていたおやっさん(五代目文枝)「伊賀上野でのチャリティ寄席に300部ほど用意してくれへんか」こんなうれしいことはない。どんなに忙しい時でもそれをはげみにこの新聞を出し続けて足かけ14年。師匠の五代目文枝襲名にむけてのはずみをつけようと、はじめた新聞だ。粉浜のみやもと印刷さんに刷り上がった当紙をもらいに行き、となり町の玉出の師匠宅に一番に届けたものだ。その足でおやっさんいきつけの喫茶ピエロさん、末永のさんぱつ屋さん等(私も常連)にも届けさせてもらった。これからもこの新聞は続けさせてもらいます。今号は師匠の思い出特集となりました。本来なら一門全員の声もお届けしたかったのですが紙面の都合ですみません。それにしても、今年の3月はなんという月だろう。いぶし銀の味の桂文紅師匠は、うちのおやじを案内するように、そして仲間や若手にもしたわれた好漢、林家染語樓師が後を追うように極楽寄席の巡業の旅に出てしまわれた。心からご冥福をお祈りしたい。  合掌


「いちもん新聞より抜粋」